柳宗理のフライパンと恋
鉄のフライパンを買った。今日わが家にやって来た。
実物を見て心臓がどきどきした。こんな美しいフライパンがあるなんて、と息を呑むほど美しくて感動した。写真も説明も口コミもさんざん見てから買ったけれど、実物の美しさはそれらを遥かに超えてる。
だからこの写真でも、やはり美しさは伝わらないのだけれど。いびつな形の美しさ。その形の持つ機能性。
このフライパンには蓋が付いていて、その蓋もまた当然ながらいびつで、でもそのいびつさは、ただ「いびつな本体にぴったりはまる」だけではなく、はめ方によっては密閉し、あるいは片側にだけ隙間を作り、あるいは両サイドに隙間を作り、煮るなり蒸すなり水切りするなり、もちろん焼くなり、好きなように調理できるための蓋になっている。
機能的なものは美しい、とよく聞くけれど、ただ機能性を求めたら美しかった、訳ではないだろう。機能性を考える時には当然として美しいものである、という前提というか、品のいい人は何をしても品がいい、ような、ものの基盤として美しさがある、ような。
あまりにどきどきして夢中になってfacebookに投稿し、夕方も遅かったけれどどうしても使いたくて油ならしをして料理をし、それでもまだ胸の高鳴る思いでフライパンを思ってるわたしは、完全にフライパンに恋したのだと思う。
なんということ!フライパンに恋する日が来るとは!笑
当たり前のように、いちいち油返しすることもないほどに、毎日使うようになっても、柳宗理のフライパンに恋していたい。恋して、心おどる料理を作ろうと思う。