思うこと。

日々思うことを思うままに話したい。

③群馬

群馬には一度だけ。ハンセン病の療養所に行った。思い出してまず浮かぶのは、透明な空気、あまりに眩しい日差し、冷たい澄んだ風。カリフォルニアみたいだなと思った。花が大きくて色が濃い。酸素がいっぱいある、そんな空気だった。

行くことになった経緯は、群馬には何の関係もないけれど、経緯あってこそ行けた群馬だから書いておく、笑。当時好きだった人はクリスチャンだった。私は高校時代からキリスト教の学校に通っていて心の中では神さまをとても信じていたけれど、日曜日に教会に行くとか、わざわざ洗礼を受けるとか、そんなこととは無縁だと思っていた。ところが好きな人がとてもクリスチャンだった訳だ、笑。あまりに好きでその人にあまりに会いたくて、同じ教会に行きたいとその人にお願いしたけれど、私の家からはあまりに遠くて、近くの教会を紹介してあげる、と言われた、笑。でもいい、少しでもその人を知りたくて、近さを感じたくて、私は素直に紹介された教会に行くようになった。健気。笑笑。

少し経った頃、ハンセン病関係の集まりがあるから一緒に行こうとその人から誘われた。行きますとも。何にでもどこにでも。誘ってくれるなら、ふたりで行けるなら、喜んで。と、私は喜んでその人と2人で出かけた。そしてハンセン病の、何の話を聞いたのか覚えていない集会に参加した。おそらく帰りにはケーキを食べに行く約束をしていて、私にとってはデートの中の一ヶ所がその集会だった訳だ。デート、と思っていたのは私だけなのだろうけど。笑

そしてそこで、紹介された教会で会ったことのある人々に遭遇し、私の好きな人も、紹介された教会の人も、ハンセン病関係の団体に関わりの深い人であることが判明した。こんな所にもご縁が、というあれ。そこから、ハンセン病の療養所で催されるワークキャンプというものの存在を知った。そして好きな人はそのワークキャンプの経験者であり、私が通うことになった教会の人もリピーターであり、私もぜひ参加してみて、という話になった。

行きますとも。ええ、行きますとも。好きな人が経験したことを私も経験しますとも。という訳で参加したワークキャンプの行き先が、群馬県にあるハンセン病の療養所だった、訳だ。

大学生から社会人まで色んな世代の20名くらいの初めて会う人たち。たしか上野で朝早い待ち合わせになっていて、当時二十歳になったばかりの関西在住の私には、前泊などという選択肢はなく、また新幹線で東京へ行く費用もなく、寝台車に乗ることにした。今思えば、気をつけてと送り出してくれた両親は偉大だと思う。時代のせいもあるけれど、それこそ連絡の手段もなく、送り出せば1週間後に帰ってくるまで、何の音沙汰も分からない未知の場所へ、全く知らない人ばかりの団体に、二十歳の女の子を行っておいでと送り出せる勇気を、ほんとうに心から讃えたいし感謝してる。

修学旅行で上野青森間の寝台車でも爆睡した私は、一人旅の京都上野間も難なく爆睡して過ごした。何度か目が覚めて、寝台車の小さな窓から見える真っ暗な中の白々した駅の様子は、とても昔のもののように思えて、でも心細くなったりはしなかったと思う。私はとても勇ましい心持ちだった。笑

そして群馬。美しい美しい自然の中のワークキャンプ。一番歳下だった私は誰からもかわいがってもらい、とても楽しかった。ワークと言っても力のない私は、何をしただろう?障子の張り替えを手伝って、下手だと笑われたような気もする。自分も土堀りをすると言ってほんの数かきで、むりむりと笑われて後は見ていたような気もする。およそ役には立たなかったことだけは確実だ。

療養所の入居者の人とも会って、話してお茶をよばれて、講演会も聞いて、参加者の話し合いもして、でもどれも、別段重いこと、のようにはまるで捉えなかった。真面目なこと、重いこと、と思うのは、何か違う、と感じていた。ここにいる人にとってはここが日常で、自分はその日常におじゃまさせてもらっている、ただそういう感覚でいたい、と思っていたのだと思う。

色んなことはあったのだろうけれど、一番気づまりだった出来事は、あるご飯の時に自分のお箸が左右長さが違っていた、ということだ。昔はよくあった小豆色のお箸の束が台所にあって、そこからガサっと取って適当に席に一膳ずつ置かれていたのだけど、その時の私のお箸はなぜか片方が短かった。サッと立って交換しに行けばよかったのに、食べるのがとてもとても遅い私にはそんな時間のロスは許されない。がしかし、左右の長さが揃っていないお箸とは何ともお行儀がわるい気がして、そんなものでご飯を食べていることに気付かれることは免れたい。途中で誰かに指摘されることのないように、人からは長さの違いが分からないように、細心の注意を払いつつ、大急ぎでご飯を食べた。ほんとに小心者のおばかさん、笑。

そして一番困った出来事は、笑うべきでない時に笑いが止まらなくなってしまったことだ。参加者の話し合いの時に配布された冊子に入居者つまり過去にハンセン病にかかっていた人の体験談が載っていて、それを読んでの話し合いだったのだけれど、病気によって手が生姜のようになってしまった、という一文があった。そのようになることは、その時すでに入居者の人たちとも会っていたから知っていたし実際に目にしていたのだけど、その状態を、生姜のよう、と表していることの的確さ、分かりやすさに、なんてうまいこと言うのだろうとものすごく感心してしまった。同時に、それって全然普通のことじゃないのに、それをその人は当たり前のこととして受け入れて生きるしかないという事実、それは手が生姜のようになったと言うことだけではなく、それはほんの取っかかりの一片で莫大なものを抱えて生きているという事実の大きさ、重さが、自分の知っていることを遥かに超えていると実感して、簡単に言えばとてもショックだったのだろう、感心とあまりの重大さというおかしな取り合わせが頭の中でぶつかって、笑ってしまう、という現象を起こさせたのだと思う。笑いは抑えることができず、そうなると爆笑し切るしか手はないのだけれど、なぜ自分が今笑ってしまうのかを説明することもできない状況で笑う訳には行かず、顔が歪み肩が震え笑い声があふれるのを、必死でこらえ、がしかしこらえ切れず、人はそれをショックのあまり泣いていると勘違いしてくれて、ほんとうに申し訳ない、余計な誤解で人を不愉快にさせたくはなく泣いてることにしてもらうしかない、と肩を震わせ続けたことがあった。

観光にも連れて行ってもらった。白根山だったかな。みんなでバスに乗ってわいわい騒いで、遊びに来た訳じゃないとリーダーの人に怒られて、でもただただ楽しい気分でここにいることの意味はとても大きい、と思っていた。そんな風に言葉にはならなかったけれど。

帰る時に、また絶対来るからね、と言ったことを今はとても悔いている。その時はほんとうにまた行きたいと思っていたから言ったのだけど、また行くことはできなかった。その時は本気だったのに、実現しないことでそれが本気じゃなかったことになるようで、何とかして行く手立てを考えたけれど、その後の自分には、当時より、物理的にではなく遠い道のりになった。

違う場所でのワークキャンプに、私の次の年に参加した夫(もちろん当時はまだ夫ではない笑)は、関西人らしく「ほな、元気でな!」と言って帰って来たと言う。なんていい別れ方かと思う。ちなみにこれも群馬とはなんの関係もないが、その紹介された教会に通い続け、そこで出会った人と私は結婚した。ついでに言うと夫も、例の、私にとってはデートの一ヶ所だったハンセン病関係の集会に参加していた。これもまた、こんな所にもご縁が、と言うやつだ。