思うこと。

日々思うことを思うままに話したい。

2023.5.9

昨夜寝る前に今日の日を振り返ったのだけど、寝る前にiPhoneは触りたくないからそれを思い出して書いておく。

長いお散歩に行けた。今日も緑がきれいで空がきれいで風が気持ちよかった。長いお散歩の間中、犬はカートで寝ていてくれた。

お昼に作った鶏そばらしきもの、自分だけのお昼ごはんだけど丁寧に作れたなー。

息子から沖縄のおみやげが届いた!大好きなブルーシールのTシャツが入ってて笑った♡そしてTシャツ似合わない人間だったけどいい感じに着られそうでうれしい。両親あてのおみやげも同封されてて届けに行ったら、母がとっても喜んでてうれしかった!

娘がとても元気そうだったな♡悩みがあると言うことさえ、悩める状態にあるってことはとてもしあわせなことだと思うってLINEが来て、ほんとそうだと思うし、そう思ってることがとてもうれしい。それっていつだってしあわせだということだもの!

 

昨日もいい日だった♡昨日も、あってよかった日だった。

⑥長野

長野は何度も行ってる。スキーにも避暑にも。学生時代にも恋人時代にも家族になってからも。両親との旅行でも。多分何十回も行ってる。自分の住んでる圏外では間違いなく一番行ってる県だ。

初めて行ったのは高校のスキー教室。希望者だけが参加するもので、私は興味もなかったのだけど、その時仲良くしてた友達が誘ってくれて行った。後で聞いた話では、私がスキー教室に行きたいと親に話した時、両親はとても喜んでくれたらしい。自分から積極的に新しいことをするタイプではないと思っていたらしく、その私が行きたいと言うのならたとえ経済的に無理することになってでも行かせてやると思ってくれたらしい。ありがたいことだ。

スキーは散々だった。ほんとうに散々だった。まるでできないし、引率の体育の先生からは日頃から運動音痴すぎて嫌われてたし、ほんとうに悲惨だった。そうだった、という記憶しかもうないけど、なくてよかった、笑。とは言え、きっと全般には楽しかったのだろう。高校生だものね、嫌なことが次々起こることにも慣れてるし、何をしても楽しいものなんだろう。

だから自分がまたスキーに行くとは、その時は思わなかっただろうけど、二十歳になる頃に付き合い始めた彼氏(後の夫)が本気のスキーヤーで、私はその後スキーに行きまくることになる、笑。

その彼氏と最初にスキーをしたのは、彼氏の居候先のペンションに(新潟に位置するのとは別のペンション。こっちは長野ど真ん中、笑)私が兄と共に遊びに行った時だった。兄と2人でスキー列車に乗って、ってなんだかかわいいエピソードだな。兄の友達もいたのかは忘れたけど、いたような気もする。兄は私を彼氏に託し、自分は自分でスキーに行き、私は彼氏がペンションの用事が終わるのを待って、ゲレンデに連れて行ってもらってた。当時はちゃんとしたウェアも持ってなくて、家にあったすこぶるださい、おそらく高校のスキー教室に行くために買った紺色のスキーパンツを履いていて、それはもう見た目から悲惨だったと思うけど、優しい彼氏はそんな見た目には一切こだわらず、私をうれしそうに連れて行ってくれた。もちろん滑ることもろくにできなかったけれど。

当初はまた兄と共に帰る予定だったけれど、彼氏に会ったら帰りたくなくなり、私はペンションに残って、居候させてもらうことにした。(もちろん後日、家に帰った際にはとんでもなく叱られた。当たり前だ。そりゃ叱られる)何となくハングリーな居候生活は、体育会系なことなど何一つしたことがなかった私には色々新鮮でとても楽しかった。何十人分もの宿の食事の用意、片付け、掃除、ほかに何をしたかは忘れたけれど、間違いなく楽しかった。昼間、手の空く時間には彼氏とゲレンデに行き、居候にはリフト券が支給されていて、物慣れた様子でリフト小屋のおじさんに挨拶して乗り込む彼氏をまねて、私も威勢よく、お願いしまーす!と言うのさえ楽しかった。最終的には家から、もういい加減にしなさい!と怒りの電話がかかって来て私はひとり列車を乗り継いで家に帰った。それも楽しかったな。乗り換えで降りた金沢で、立ち食いうどんを食べた。多分天ぷらうどん。ひとりでそんな所で、立ち食いうどんを食べてるなんて、なんて勇ましいんだろうと自分が誇らしかった。きっと駅も大股で歩いていたと思う、笑。

その後もとにかく冬はスキーだった。始めはスキーバスで、そのうち車で行くようになってからは、週末が近づくと思い立って出かける、くらいの気楽さでよく行った。真冬のスキー、3月に入ってからの春スキー。子どもが生まれてからはソリ遊びに行けるようになるまでの数年間はお休みだったけど(私は)、その後はまた10年ほど年に2回は長野に行ってたと思う。

 

10数年前からは、夏休みに長野に出かけるようになった。あちこちのペンションを探し、行った先でちょっとした観光をして、おいしいお蕎麦屋さんに行って、ドライブをして。何と言うこともないけれど、山があって緑があって、それでちょうどいい、と言うような。

少し前にペンションメッツァという、小林聡美さんのドラマを見たら、長野の夏の日差しや空気の色や、風の温度や日影の涼しさや、そんなものがとてもとても懐かしかった。

最後に行ったのは2015年の夏だから、もう8年も前になる。自力では、よく行ってた辺りまでは難しいけれど、諏訪湖にはまた行こうと思う。

 

日常に戻って行く

私自身は毎日休みのようなものだけれど、世の中が休みの日は、やっぱり休みだと感じる。連休ならば連休だ、と感じる。ましてや家族が帰って来るとなると、完全なる連休だ。あまり普段と変わらない生活ではあるものの、ひとりか、ひとりではないか、は大きく違う。誰かが一緒にいるというのは、都合をすり合わせることでもある。別に何と言って都合もないけれど、それこそ今お茶を飲むかどうか、いつお風呂に入るか、携帯を見るか見ないか、そんなこともいちいち、相手とのタイミングを無意識に見計らう。誰かと暮らすというのは、そういうことの連続だ。それがどう、ではなくて、ただそういうものだ、という話。

連休に限らないけれど、家族が帰って来て週末なり数日なり過ごして、またそれぞれの家に帰って行くと、

(話が逸れるけれど、ここに来ることも「帰る」だし、また去って行くことも「帰る」のは、言葉的には帰ってばかりになってしまうが、やはりどちらも「帰る」だなあと思う)

誰かがここにいた間の気分から、自分だけの日常へ切り替え作業をしたくなる。誰かがいることで別の自分になってる訳ではないと思うけど、このままではいつもの日常にはちょっとそぐわない、そんな感じがする。

長い連休をここで過ごした家族が帰って行き、さて、と定番の映画を見ることにした。何ということのない昔のラブコメ。だけどどうもしっくり来なくて、挫折。夕飯の後にfacebookに投稿することにする。このブログもつい長文になるように、何しろ私はいつだって長文派だ、笑。facebookも長い。長い文章を書いて、楽しい写真を選んで投稿する。書いている間に気がつくとだんだんいつもの「ひとりでいる自分」に戻って行ってる気がする。

書くこと、なんだと思う。書くことで、自分自身に戻る、それはすなわち私の日常に戻ることなのだと思う。そしてfacebookだけでは飽き足らず、このブログも書いている。

と書いていてふと思った、自分自身に戻ることが日常に戻ること、とは、私は普段、自分自身そのままであることを当たり前として暮らしているのだ、ということ。それはとても贅沢なことな気がする。

⑤新潟

しかし新潟は、新潟に行く!と思って行った訳ではない。新潟とは思ってなかったけれど新潟だった、と言う所に行った。行った先は斑尾高原で、だから長野とセットなのだけど、長野は数え切れないほど行ってるから、ともかく「実は新潟」だった所だけの話にしよう。

斑尾高原の中の、そのペンションには何度も行った。斑尾高原自体は長野の住所だから、そのペンションも郵便物で言えば長野県で始まる宛先なのだけど、実際は新潟に位置しているらしい。そもそもは夫(群馬の話で出てきた好きだった人に紹介された教会、に通っているうちに知り合って結婚した夫)がスキー同好会に入っていた学生時代に、冬になると居候をしていた先のひとつで、スキーシーズンにはふたりで、あるいは家族で、あるいは会社ぐるみで、何度も行ったけれど、夏に一度だけ行ったことがあるから、その話にしよう。

就職して3年目だったと思う、毎日忙しくて、その上頻繁にデートもしていて、とにかく毎日睡眠不足だった。夏休みはどこに行こうか、何がしたいか、と考えたらとにかく休みたかった。結婚して子どもが生まれて、の後の暮らしに比べると何でもない程度の忙しさだったのだけど、笑、その時の自分としては、とても忙しくてくたくただった、訳だ。

スキーではすでに何度か行っていたけれど、夏に行くのは初めてで、雪のない斑尾高原はとても新鮮だった。個人的には、ほんとうに何もせずただぼーっとペンションで過ごしているので充分だったけれど、夫(当時は彼氏)はそういうタチではないし、ペンションの人にも、何かしに行かないと!とせき立てられ、致し方なくなんだかんだ出かけて過ごした。レンタサイクルもした。が、ウソみたいだけど私は自転車に乗れないから、ウソみたいだけど2人乗り自転車を借りた。アニメみたいね、笑。何のアニメか知らないけど。いわゆるお盆の時期ではない時に休みを取ったのか、どこもとても空いていて(バブル期だから夏の信州は賑わっていたはずだ)少し離れた湖まで、のんびり出かけた記憶がある。たぶん、のんびりしてたのは私で、夫は2人乗り自転車を一生懸命こいでくれてたと思うけど。私もこぐわって言ったものの、何しろ乗ったことがないから、ペダルに足を付けておくこともできず、夫のこぐ速さに合わせることもできず、もういいから足上げときーと言われ、おそらくペダルは放棄してたと思う。盛夏すぎの日差し、涼しい風、ひょろひょろ伸びる道沿いの草、アスファルトの道、山あいというほどでもなく、平地でもなく、そんな道を延々と進んだ。行った先の湖がどんなだったか、そこで何かをしたのか、お弁当でも持って行ったのか、まるで覚えてないけれど、けらけら笑って、笑うと力が抜けると夫がまた笑って、とても静かな何でもない道の景色というか、匂いというか、そんなものとか、ふざけてもたれた時のポロシャツの肌触りとか、覚えているのか知らず捏造したものか分からないけれど、思い出す。思い出すことに捏造された部分があってもいいと思う。そうであればいいと願ったことか、こうならよかっただろうと、事実かどうか分からないけれど願うことか、いずれにしても自分にとってそれが、より都合のいい記憶ならそれでいいじゃないか。

ゲレンデにも行った。もちろん雪はなく草の生い茂るゲレンデは、なんというかすっぴん、みたいだった。ここ、ゲレンデだよ、と夫が言ってもまるでぴんと来ず、あっちがなんちゃら、この向こうがなんちゃら、と冬に滑ったゲレンデの名前を説明してくれても白いゲレンデとはまるで別物で、リフトの支柱だけが確かにここはゲレンデだと思わせる。膝上あたりまで伸びる草むらのあちこちに小さな花が咲き、信州の夏は優しい。このゲレンデは間違いなく長野だろうと思う、新潟の話のはずだけど、笑。小さなアスレチックも作られていて、一度してみたかった、ロープにぶら下がって滑って行くやつをしたと思う。

新潟に位置するペンションでは、いつものように食事をして、初めてテラスでお酒を飲んだかな。坂道に建っているそのペンションのテラスは、冬には雪に埋もれるから、それまでは見たことなかったんだと納得したような気がする。こういう自然の中に行くと、夜には必ず星を見ることにしてるから、おそらくこの時も暗い道をもっと暗い所目指して歩いて行ったのだろう。おぼろげな記憶から言えば、より新潟方面に向かって歩いて行ったはずだ。新潟で星を見た。

この時は長距離バスで行った旅で、帰りはまだずいぶん陽の高いうちに出発した。ペンションが併設している食堂で、夫が居候していた時の友達が働いていて、バスで食べるようにとお弁当を渡してくれた。帰りのバスはがらがらで、別にけんかもしていなかったけれど別々の席に広々と座りお弁当を食べた。お弁当パックに、その友達がおかしな絵を描いてくれて、みんなでげらげら笑った。そんなことがあったよね、と夫に今言えば、何でもよく覚えてるなあと半ばあきれて感心されるだろうな。そんなことがあったよね、覚えてないでしょう、でもあったよ。おかしな豚の絵を見てみんなで笑ったよ。

それが新潟のおしまいの場面。

昼間の月

散歩は日課。むしろ日課は散歩、かもしれない。緑がきれい。空が青い。この青は宇宙の色なのだなとある時思った。大気圏だとか色々難しいことは置いておいて、この地球の表面が、実は宇宙に面しているのならば、この青は宇宙の色だ。

 

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昼間にふと空を見上げて月が見える時、私はいつも笑う。笑ってしまう、というくらいの反応の仕方で笑う。この時の自分の頬の筋肉の動きには覚えがある、その笑い方で笑う。今では月を見つけた時にしかできない笑い方。

今日も青い空に薄い月が見えた。あ、と思い、同時に笑った。頬のまん中の筋肉だけを持ち上げる表情で。好きな人に会った時に思わずする笑い方で。あ、いたのね、と思う。居てくれたんだ、と安堵する。居てくれるのに、すぐに実感をなくしてしまうのだけれど。また安堵する。

昼間の月は私には奇跡で、こんなにも昼間にも月が見えることを数年前まで知らなかった。まるで雲のような顔をして薄い白色で浮かぶ月。青い空から、元気にしてる、と笑いかけて訊いてくれる月。

元気だよ。ここに居ない人が月に居ると思う訳ではないのに、なぜか月は、ことに昼間の月は、ここに居なくなった人そのもののように思う。

④茨城

茨城には兄の結婚式に行った。大学院卒業後、茨城にある会社に就職した兄は、地元で出会った人と結婚した。その後、家を建てると間もなく単身赴任転勤族になって、海外や国内のあちこちで暮らし、自宅に住めるようになったのはようやく最近のことらしい。

それはともかく、結婚式。両親、姉家族、叔父夫婦と私の8人で新幹線に乗り、上野に出てスーパー日立(と言ったと思う)に乗り、茨城に行った。茨城には行ったのだけど、何しろ目的が結婚式で、終わるとすぐに帰って来たから、茨城にいた、という実感を持つ間もなかった。

到着した日に美容院で髪をセットしてもらったような気がする。その夜、お風呂にも入るし、第一寝るのに?寝るのに、セットだった、多分。美容師さんにどこから来たのかと尋ねられ、関西だと言うと、都会の人だと羨望の目で見つめられ、いやそんなばかな、と思った。何駅だったかは忘れたけれど、普通にごちゃごちゃとお店もビルもたくさんあって、充分に賑わっていて、暮らすのにそれ以上都会でなくてもいいだろう。むしろ観光地の私の地元よりうんと街らしいと思ったけれど、そんなことはない、ここは田舎だと、美容師さんはとても真面目な顔で言っていた。

さて結婚式。三三九度をするような結婚式だったと思う。意外なことには、本人たちだけではなく家族も、これからよろしくお願いしますの盃を交わすことになっていて、とても驚いた、ように思う。白無垢を着たお嫁さんはとてもきれいだった。美人だと知っていたけれど、白無垢のとても似合う人で、ほんのちょっと天然な所のある人には全然見えなかった。同い年の私たちは、兄とその人が結婚する前からそこそこ親しくしていて、ちょっと天然でさばさばしていて、美人であっさりしていて、全く悪気のない真っ直ぐな人だと、その頃すでに知っていたと思う。多分、今も変わらずそういう人だろうと思う、もう会うこともなくなったけれど。

茨城は、そんな訳で、行ったけれど茨城に行った、と言うよりも、結婚式に行った、だな。その頃は、またいつか兄の家に遊びに行くこともあると思っていたけれど、なかったし、もうないだろう。んー、ないかな。ない、と言い切るのはちょっと寂しいから保留にしておこう。

③群馬

群馬には一度だけ。ハンセン病の療養所に行った。思い出してまず浮かぶのは、透明な空気、あまりに眩しい日差し、冷たい澄んだ風。カリフォルニアみたいだなと思った。花が大きくて色が濃い。酸素がいっぱいある、そんな空気だった。

行くことになった経緯は、群馬には何の関係もないけれど、経緯あってこそ行けた群馬だから書いておく、笑。当時好きだった人はクリスチャンだった。私は高校時代からキリスト教の学校に通っていて心の中では神さまをとても信じていたけれど、日曜日に教会に行くとか、わざわざ洗礼を受けるとか、そんなこととは無縁だと思っていた。ところが好きな人がとてもクリスチャンだった訳だ、笑。あまりに好きでその人にあまりに会いたくて、同じ教会に行きたいとその人にお願いしたけれど、私の家からはあまりに遠くて、近くの教会を紹介してあげる、と言われた、笑。でもいい、少しでもその人を知りたくて、近さを感じたくて、私は素直に紹介された教会に行くようになった。健気。笑笑。

少し経った頃、ハンセン病関係の集まりがあるから一緒に行こうとその人から誘われた。行きますとも。何にでもどこにでも。誘ってくれるなら、ふたりで行けるなら、喜んで。と、私は喜んでその人と2人で出かけた。そしてハンセン病の、何の話を聞いたのか覚えていない集会に参加した。おそらく帰りにはケーキを食べに行く約束をしていて、私にとってはデートの中の一ヶ所がその集会だった訳だ。デート、と思っていたのは私だけなのだろうけど。笑

そしてそこで、紹介された教会で会ったことのある人々に遭遇し、私の好きな人も、紹介された教会の人も、ハンセン病関係の団体に関わりの深い人であることが判明した。こんな所にもご縁が、というあれ。そこから、ハンセン病の療養所で催されるワークキャンプというものの存在を知った。そして好きな人はそのワークキャンプの経験者であり、私が通うことになった教会の人もリピーターであり、私もぜひ参加してみて、という話になった。

行きますとも。ええ、行きますとも。好きな人が経験したことを私も経験しますとも。という訳で参加したワークキャンプの行き先が、群馬県にあるハンセン病の療養所だった、訳だ。

大学生から社会人まで色んな世代の20名くらいの初めて会う人たち。たしか上野で朝早い待ち合わせになっていて、当時二十歳になったばかりの関西在住の私には、前泊などという選択肢はなく、また新幹線で東京へ行く費用もなく、寝台車に乗ることにした。今思えば、気をつけてと送り出してくれた両親は偉大だと思う。時代のせいもあるけれど、それこそ連絡の手段もなく、送り出せば1週間後に帰ってくるまで、何の音沙汰も分からない未知の場所へ、全く知らない人ばかりの団体に、二十歳の女の子を行っておいでと送り出せる勇気を、ほんとうに心から讃えたいし感謝してる。

修学旅行で上野青森間の寝台車でも爆睡した私は、一人旅の京都上野間も難なく爆睡して過ごした。何度か目が覚めて、寝台車の小さな窓から見える真っ暗な中の白々した駅の様子は、とても昔のもののように思えて、でも心細くなったりはしなかったと思う。私はとても勇ましい心持ちだった。笑

そして群馬。美しい美しい自然の中のワークキャンプ。一番歳下だった私は誰からもかわいがってもらい、とても楽しかった。ワークと言っても力のない私は、何をしただろう?障子の張り替えを手伝って、下手だと笑われたような気もする。自分も土堀りをすると言ってほんの数かきで、むりむりと笑われて後は見ていたような気もする。およそ役には立たなかったことだけは確実だ。

療養所の入居者の人とも会って、話してお茶をよばれて、講演会も聞いて、参加者の話し合いもして、でもどれも、別段重いこと、のようにはまるで捉えなかった。真面目なこと、重いこと、と思うのは、何か違う、と感じていた。ここにいる人にとってはここが日常で、自分はその日常におじゃまさせてもらっている、ただそういう感覚でいたい、と思っていたのだと思う。

色んなことはあったのだろうけれど、一番気づまりだった出来事は、あるご飯の時に自分のお箸が左右長さが違っていた、ということだ。昔はよくあった小豆色のお箸の束が台所にあって、そこからガサっと取って適当に席に一膳ずつ置かれていたのだけど、その時の私のお箸はなぜか片方が短かった。サッと立って交換しに行けばよかったのに、食べるのがとてもとても遅い私にはそんな時間のロスは許されない。がしかし、左右の長さが揃っていないお箸とは何ともお行儀がわるい気がして、そんなものでご飯を食べていることに気付かれることは免れたい。途中で誰かに指摘されることのないように、人からは長さの違いが分からないように、細心の注意を払いつつ、大急ぎでご飯を食べた。ほんとに小心者のおばかさん、笑。

そして一番困った出来事は、笑うべきでない時に笑いが止まらなくなってしまったことだ。参加者の話し合いの時に配布された冊子に入居者つまり過去にハンセン病にかかっていた人の体験談が載っていて、それを読んでの話し合いだったのだけれど、病気によって手が生姜のようになってしまった、という一文があった。そのようになることは、その時すでに入居者の人たちとも会っていたから知っていたし実際に目にしていたのだけど、その状態を、生姜のよう、と表していることの的確さ、分かりやすさに、なんてうまいこと言うのだろうとものすごく感心してしまった。同時に、それって全然普通のことじゃないのに、それをその人は当たり前のこととして受け入れて生きるしかないという事実、それは手が生姜のようになったと言うことだけではなく、それはほんの取っかかりの一片で莫大なものを抱えて生きているという事実の大きさ、重さが、自分の知っていることを遥かに超えていると実感して、簡単に言えばとてもショックだったのだろう、感心とあまりの重大さというおかしな取り合わせが頭の中でぶつかって、笑ってしまう、という現象を起こさせたのだと思う。笑いは抑えることができず、そうなると爆笑し切るしか手はないのだけれど、なぜ自分が今笑ってしまうのかを説明することもできない状況で笑う訳には行かず、顔が歪み肩が震え笑い声があふれるのを、必死でこらえ、がしかしこらえ切れず、人はそれをショックのあまり泣いていると勘違いしてくれて、ほんとうに申し訳ない、余計な誤解で人を不愉快にさせたくはなく泣いてることにしてもらうしかない、と肩を震わせ続けたことがあった。

観光にも連れて行ってもらった。白根山だったかな。みんなでバスに乗ってわいわい騒いで、遊びに来た訳じゃないとリーダーの人に怒られて、でもただただ楽しい気分でここにいることの意味はとても大きい、と思っていた。そんな風に言葉にはならなかったけれど。

帰る時に、また絶対来るからね、と言ったことを今はとても悔いている。その時はほんとうにまた行きたいと思っていたから言ったのだけど、また行くことはできなかった。その時は本気だったのに、実現しないことでそれが本気じゃなかったことになるようで、何とかして行く手立てを考えたけれど、その後の自分には、当時より、物理的にではなく遠い道のりになった。

違う場所でのワークキャンプに、私の次の年に参加した夫(もちろん当時はまだ夫ではない笑)は、関西人らしく「ほな、元気でな!」と言って帰って来たと言う。なんていい別れ方かと思う。ちなみにこれも群馬とはなんの関係もないが、その紹介された教会に通い続け、そこで出会った人と私は結婚した。ついでに言うと夫も、例の、私にとってはデートの一ヶ所だったハンセン病関係の集会に参加していた。これもまた、こんな所にもご縁が、と言うやつだ。